2020年4月26日 礼拝メッセージ

 

「悪魔の誘惑に勝利するために」ルカ4:1−11 

 2020/4/26  松見ケ丘キリスト教会

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 現在、新型コロナウイルス拡大防止のために「STAT HOME」ということで、家にいることを強いられ、ご苦労されている方が多いかと思います。私の場合も血糖値を正常値に保つためにこれまで毎日歩くようにしていたのですが、狭い家の中では短い距離を行ったり来たりしなければならず、五千歩程度がやっとです。

 マスクの装着、外出後の手洗い、人と人との距離を保つ「フィジカルディスタンス」に心がけながら、普通に近い社会生活をすることのほうが健康的なのではないかと思ったりするのですが、感染防止を第一に考えると、やはり「STAT HOME」するしかないのようです。

 

 今回のような新型コロナウイルスの困難だけではなく、私たちの人生には様々な困難や試練が襲ってきます。Ⅰコリント10章13節には「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。」とあるように、私たちは試練から逃れることはできません。試練に遭ったときにはどのように私たちは対処したら良いのか迷うものですが、この朝、主イエスの受けた試みとその対処をみながら、悪魔の試みに勝利したあり方を学びたいと思っております。

 

 「4:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、4:2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」

  40日間、何も食べなかったというはかなりきびしい断食です。肉体的には極限に近いでしょう。かつて一日間断食をしたことがあるのですが、終わり近くになると、だんだんお腹が空いて来て、何を見ても食べ物を連想するようになったのを覚えています。

 

 主イエスは空腹の中で、悪魔が主イエスを誘惑します。「4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。』」

 確かに神の子であるならば、石をパンに変えることなどそれほど難しいことではありません。しかし、主イエスは悪魔の誘惑に対して、石をパンに変えることをせず、申命記を引用し、「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」と答えられ、悪魔の誘惑を退けました。

 

 主イエスが特別な肉体を持っていたので、その必要が無かったのではありません。人となられた主イエスは、食事をしなければお腹も空くし、動き回れば疲れ、眠らなければ眠くなるという私たちと全く同じ肉体をもっておられました。ですから空腹という試みも、私たちと同じ肉体を持つ人間としての試練です。そのような意味では、主イエスの受けた試みは、私たちが度々受ける試みと同じです。

 

 人間の内側に起こって来る様々な欲求は、「試み」であると同時に「誘惑」にもなりうるのです。もし、人間の内側に起こって来る様々な欲求を、すべて具体的な行為としてしまったらどうなるでしょうか。時として犯罪行為にまでなってしまうことがあります。

 

 私が昨年まで住んでいた弘前市では多くのリンゴ農家がありました。そのリンゴ農家は一年中かけでこのリンゴの木を手入れし、秋にはそのりんごの実を収穫し、リンゴ園の中の一角に何十箱と積んで置いたりしています。しかし、ときどき夜中にリンゴ泥棒がトラックでやって来てごっそりと盗んで行ってしまったことが毎年ニュースになります。盗んだ人は、自分の心の中に起こった思いを行動に移しただけだと思っているかも知れません。もし同じように、お腹が空いたからと言って店先の食料を食べてしまったらやはりこれも犯罪です。人間の欲求をそのまま具体的な行為にしてしまったら大変なことになります。

 

 創世記3章には、神によって造られたアダムとエバの犯した罪について記されていますが、創世記 3:6には、 「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。二人はエデンの園において、神が食べてはならないと命じられた善悪を知る知識の木の実を見たとき、「その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」のです。そして、アダムとエバは、その実を食べてしまいました。いくら食べたくても、食べて良いものであるかどうか、「神のみこころは何か」ということに基づいて、アダムとエバは自分たちの行動を決定しなければならなかったのです。

 

 悪魔は石をパンに変えるように主イエスを誘惑しまた。しかも、「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい」と挑発してきたのです。もちろん、主イエスは石をパンに変えることがおできになりました。しかし、それをなさらなかったのです。それは神のみこころではなく、悪魔の思いであり、誘惑であったからです。人間の内側に起こって来る様々な欲求に対しての行動基準は、それを行動にあらわしたときに適切なものであるかどうか人間の良心に聞くこと、さらには神のみこころにかなっているかどうかということです。主イエスは誘惑を受けたとき、悪魔に対して『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」と申命記8章にあるみことばを示し、その試みを退けられたのです。これこそ、同じ肉体を持つ私たちへの模範であります。

 

 主イエスはご自分のために神の子としての能力を、自分の欲望のためにはお用いにならず、空服を覚えられたとき石をパンに変えられなかっただけではなく、十字架を前にしても、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈り、同時に、「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」と祈っています。このとき奇跡によって苦難から逃れることをせず、苦しみのすべてを受けられたのです。

 

  主イエスが引用された申命記8章3節には、「それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった」とあります。神は、私たちが生きていくための肉体の必要をご存知で、人間の精神的な必要だけではなく、人間の生きていくためのすべての必要を満すことができるのです。

 

 主イエスの受けた第二の試みが4章5〜7節に記されています。

   「すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、

こう言った。『このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。』」

 

  主イエスに対する悪魔の試みは、「もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる」この世の栄華、権力のすべてを与えるというものです。この世の栄華、権力のすべては多くの人々の求めてやまないものです。これらを得るために人間はあらゆる手段を使ってそれを自分のものにしようしています。

 

 主イエスは、世の救い主として公生涯を始められるとき、悪魔からこのような試みを受けました。それは、十字架による救いではなく、この世の権力、政治力をもって人々を救えという悪魔の誘惑でもあります。しかし、この世の権力、政治力をもって人々を救うことは神のみこころではありません。この世の権力を用いて人々を従わせるのではなく、罪の奴隷であった者を罪から贖うためにかかられた十字架の救いだけが唯一の神の救いの方法でした。悪魔にひれ伏し、この世の権力によって人々を救おうとする試みは、悪魔の誘惑そのものです。そこで再び主イエスは、聖書の申命記6章13節を引用され、悪魔の誘惑を退けられています。父なる神のみこころに従わず、悪魔に跪き、悪魔と妥協しての本当の救いなどないからです。

 

 第二次世界大戦の時、日本は軍国主義の時代でありました。当時の日本の指導者たちは、天皇と神社を利用し、国をまとめるためにすべての国民にこれを拝むように義務づけたのです。当時の教会の指導者たちも政府の圧力に屈し、キリスト者である前に日本国民であるというもっともな理屈を立て、国民儀礼であるとして宮城遥拝を行わせました。そして宮城遥拝を行わない教会は弾圧されることになったのです。

 

 また朝鮮でも、神社参拝を行うことは偶像礼拝ではなく国民儀礼であるとして偶像礼拝を強いました。その結果、弾圧を受けないために多くの教会がこれに従いましたが、神にのみ忠誠を尽くすべきと考えた人々は勇敢にこれと戦い拒絶しました。日本福音キリスト教会連合の全国総会に講師としてお招きした趙寿玉(チョウ・スオク)先生はそのお一人で、長い間牢に捕らえられていました。戦後、日本が敗北すると立場は逆転しました。趙寿玉(チョウ・スオク)先生は「自分には何の立場も何の力もなかった。だた、イエスを主として従っただけです」と証言しています。

 

  悪魔は私たちが求めてやまないものを得させるために、私たちをこの世との妥協に導き、悪魔に屈することを求めますが、私たちの答えも、主イエスと同じでなければなりません。しかし、今日の私たちへの誘惑は迫害よりも、この世の栄華のほうが強いのではないでしょうか。しばしば人はこの世からの賞賛を得たいために、悪魔にひざまずき、イエス・キリストを主と告白する信仰から離れていくことがあります。

 

  悪魔は私たちが心惹かれるこの世の栄華を見せて、私たちを神から引き離すために、悪魔にひざまずく誘惑を仕掛けてくるのです。私たちはこのような誘惑に対して、「イエスは主である」という告白ししっかり掲げ、主に倣って悪魔の誘惑を退けなければなりません。

 

 続いて、主イエスへの第三の試みを見てみましょう。三つ目の悪魔の誘惑はさらに巧妙です。聖書のみことばをもって誘惑しました。

 

 「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、

あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(ルカ4:9〜11)

 

  主イエスは多くの人々を奇跡によって癒されました。12年間長血をわずらっていた女をいやし、38年間病気にかかり、ベテスダの池でいやされることを願っている男に目をとめ、「良くなりたいのか」と問われ、癒してくださいました。しかし、人々の好奇心を満たすための奇跡は一度もなさいませんでした。メシヤとしてしるしを見せてほしいという人々の挑発に対しては、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」(マタイ12:39)と答えられました。

 

 もし、奇跡をもって人々を従えようとしたなら、それもできたはず。しかし、主はそれを拒絶されたのです。そしてそのようなしるしは、ヨナのしるし以外に与えられないと言われました。ヨナのしるしとは、ヨナが大きな魚の中に3日3晩いて陸に吐き出されたという奇跡です。それは、主イエスが十字架にかかり殺され、葬られ3日3晩墓の中にいて、復活されるという奇跡です。それ以外のしるしは与えられないというのです。

 

  私たちも、ある目的を達成するために経なければならないプロセスを省略し、手っ取り早く、簡単にそれを得ようとする誘惑があります。

 

 両国には「ねずみ小僧次郎吉」が葬られたというお寺があります。そのねずみ小僧次郎吉の墓石が削られて持って行かれるということで有名になっています。「勝負に勝つ」「運がつく」「受験に合格する」などのご利益があるということで削られていくために、最近では欠き取り用の墓石が前に置いてあるとのことです。人間の欲望を達成するために神を利用しようとするあり方は、本来の信仰とは別のものです。

 

 主イエスは神のことばを利用した悪魔の誘惑に対して、神のことばをもって悪魔の誘惑に対抗されました。申命記6章16節のみことばを引用し、「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」悪魔に語り、悪魔の誘惑を退けられたのです。神を試し、劇的な奇跡だけを求めるあり方は、イエス・キリストを主と告白し、神のみこころに従うことを第一にする信仰とは異なるものです。

 

 主イエスが十字架にかかられたとき、人々は主イエスに対して、「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」(マタイ27:40-42)と挑発しましたが、ご自分を救うための奇跡はなさいませんでした。

 

 初代教会の人々は、迫害の中で、自分たちが殺されても、なお主に対す信頼、忠誠を失いませんでした。これらの人々にとって神の奇跡は、ヨナの奇跡、すなわち3日目にイエス・キリストがよみがえられた事実だけで十分だったのです。

 

 「するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」(ルカ4:12 )

イエス・キリストは御霊に導かれ、神のことばをもって悪魔の誘惑を退けられました。人となられた神の御子イエスは、私たちが人として弱さをもち、悪魔の様々な誘惑に対しても弱いのをご存じです。主の御霊が私たちの内に住んでいてくださり、私たちをも誘惑から守り、みことばの力をもって悪魔の誘惑を退けさせてくださることを信じようではありませんか。