主イエスが宣教を開始されたのはガリラヤ湖の北西にあるカペナウムという町。そこには現在でも土台が遺跡として残っている大きな会堂がありました。また使徒として召されたペテロやアンデレもこの町の出身でした。マタイの福音書(4:15-16)では、主イエスが、ガリラヤで宣教を始められたのは、イザヤ書の預言の成就であるとして次のように記しています。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
クリスマスなどによく読まれるイザヤ9:1〜2のみことばです。
ゼブルンとナフタリとは、12部族の名前です。イスラエルの12部族がエジプトからカナンの地に入ったとき、ガリラヤ湖の西側に割り当て地を与えられた。それがガリラヤ地方でした。
イスラエルの北にあったガリラヤ地方は、イスラエル北側に位置していたために真っ先にアッシリヤの侵入を受けました。しかし、真っ暗闇の中でも希望の光があることをイザヤは預言しているのです。マタイの福音書では、その預言に引き続き、「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」と記します。預言者イザヤを通して語られたことが成就した出来事とは、それは、ガリラヤから主イエスが宣教を始めら出来事だったのです。
「天の御国」は福音のメッセージの中心的な主題です。主イエスの道備えをしたバプテスマのヨハネの最初のメッセージも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ三・2)でした。
パウロも、エペソの長老たちに自分自身を「御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私」(使徒20章)と語り、福音の中心的主題は、天の御国であること示しています。
主のメッセージの中心は神の国に関するメッセージでしたが、律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられたのです。それは、律法学者ように、自分の説き明かしを権威づけるために、有名なラビの言葉を引くのではなく、ご自分が権威ある者として語られたからです。
(ルカ4:32)には「人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである」とありますが、それはただメッセージの語り方のことではなく、主イエスの語られた通りに病の人々が癒され、すべての出来事がそのお言葉の通りになったからです。人々は主イエスの語るお言葉に特別の力、権威を見ていたのです。
その結果、今日のルカの福音書5章に1節には、「さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来た」と記されています。主イエスは多くの群衆がガリラヤ湖の岸辺に迫っていたので、シモン・ペテロの舟を借りて、陸から少し離れた場所湖の上から、群衆に向かってみこととばを語り始めたのです。しかし面白いことに、人々が熱心に主のおことばに耳を傾けようとしていた時にペテロをはじめ、漁師たちは舟から降りて網を洗っていたとあります。彼らは自分の生活と、神の言葉とは少し距離を置いていたのです。
メッセージが終わると、主イエスは、シモンに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
と命じられるのです。ペテロはこのように命じられたときに驚いたはずです。主イエスが語られた神のことばは、自分の漁師としての生活とは違った分野にあったと思っていたからです。
ペテロは子供の頃からこの湖のほとりで育ち、自分の親たちも、この湖で漁をしているのを見て育ち、自分もその親から漁を学び、その仕事引き継ぎ漁師をしてきたので、いわば漁師のプロとしての自覚は持っていたはずです。その自分の仕事の分野に主イエスが入って来られ、大工の仕事しか経験のない主イエスが、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられたからです。
青森県には、マグロのブランドである「大間のマグロ」がありますが、下北半島の北にある大間でのマグロ漁のルポがテレビで放映されていたのを見たことがあります。テレビ局のスタッフがその漁についていって撮影しているのですが、マグロがかかったと思われると、それまでテレビ局向けの対応をしていた漁師が、突然「どけっ」と怒鳴りつけ、自分の仕事であるマグロ漁に夢中になっている姿を映し出しました。
またその番組では、魚群探知機でマグロを探し出すシーンも取材していたのですが、不思議なことに一緒に漁に出た船は、魚群探知機よりも、それをつけていない一番年寄りのマグロ捕りの名人の動きのほうを重んじていたのです。名人はこれまでの経験によってまぐマグロがどのように海を回遊するかを知っているので、漁師たちは体験的に魚群探知機よりも、このマグロ捕り名人のほうを信用して後をついて行くのです。さすがプロはすごいと思わされたものです。
人間には経験でしか得られないことがあります。確かに経験とそこから得られる知識は価値あるものです。しかし、経験や知識は時として新しいものを見出すときには邪魔になることがあります。新しい発見や発明などでは、全くそのことを知らない人が、それまでの発想では考えられない物の見方をして、偉大な発見をすることがあります。私たちの人生においても、同じ経験を重ねて来ると、自分なりの物の見方が定まってしまい、さらに偉大な発見や真理に対しては心を閉じてしまうことがあるのです。
主イエスは漁師のプロであるペテロに、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられたのです。通常ガリラヤ湖では日中漁をしてもほとんど取れないと言われています。ですから夜から朝にかけて漁をしていたのです。主イエスは、漁師であるペテロのこの常識に挑戦されたのです。ペテロは答えました。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」多分、ペテロが大漁を経験した直後であったら、主イエスが命じられても、そのお言葉通りにしないで、自分のやり方を誇って、主に漁の常識を教えていたかも知れません。
人間は何もかもうまく言っているときは、謙虚になることができないものです。そのような時には、なかなか人の言葉に耳を傾けようとしません。しかしこの時は、「私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」という徒労の経験があったのです。漁師のプロである自分の知識と経験をももっても、何ひとつ捕れない徒労の経験がペテロを少し謙虚にしたようです。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
ペテロは自分の知識、経験をひとまず置いて、主イエスのみことばに従ったのです。
《深みに漕ぎ出して》とは、自分の知っていること、経験したこと以上のことがあることを認め、神の言葉に従うことです。そしてペテロが「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」(6節)とあります。結果は信じられないほどの大漁でした。
私たちはどうか、神の言葉に聞き従うことができない原因として、これまでの自分の知識や成功体験が邪魔になっていることはないでしょうか。自分の知識や経験だけにしがみついていては、さらにすばらしい世界を経験できないのです。逆に挫折経験を今持っているとしたら、自分の知識や経験だけでは得られないことがあることを認め、主のお言葉を素直に聞くという態度を持つことによって、さらにすばらしい天の御国についての経験をすることになるのです。
大漁の後のペテロは、主イエスに対して大きな変化が現れています。(8節)
「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』」
《主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから》という自己認識は、自分が今、聖なるお方の前にいると認識したからの言葉です。
主イエスを「先生」から、8節「主よ」という呼び方に変化しています。
ペテロは普段主イエスを呼ぶとき、「先生」と呼んでいたようです。このあと8章でも先生と呼んでいます。この言葉は、通常は、先生とかご主人という意味です。しかし、「主よ」という呼び方は、それ以上の存在、神であると認識したらかです。
ペテロが当初、イエスさまのお言葉に従った思いは、まあ無駄だと思いますが、ご主人であるイエスさまのせっかくのお言葉ですから、という思いだったでしょう。最初から本気に信じて従うことからは少し距離があります。しかし、最初は小さな従順であったとしても、「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と、主のお言葉に従って一歩を踏み出すことにより、神は私たちに大きな変化、体験を与えて下さるのです。
大切なことは、これまで得た知識や経験は大事なものとして置いておいたとしても、小さな従順でも、まず神の言葉に従って第一歩を踏み出して見ることです。神の言葉に従ってまず第一歩を踏み出すとき、私たちもペテロと同じように、新しい経験をすることができるのです。
主はペテロに語られました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」。 「あなたは人間を捕るようになるのです」とは、ペテロが神の恵みを知らない人々に、神の恵みを伝える者となることです。自分の生活のためだけに生きる生涯から、他の人々に主の恵みを伝え、主に仕える生涯へと変えられることです。自分の栄光ではなく、神の栄光を現す生涯への招きでもあります。
ペテロやアンデレは、この主イエスの召し対して、「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。それまで大切にしていたものを何もかも捨てて、主に従ったとあるのです。
主イエスにお会いする前に私たちには、数多くの大切なものを持っています。それは自分の生き甲斐であったり、誇りであったり、生活となっているものだったりします。しかし、主イエスにお会いすることによって、それらがすべてでないことを知るのです。もしそれがすべてであると信じて生きて来たならば、それらが色褪せたものとなって見えることがあります。
使徒パウロは、キリストに出会う前は、誇るべきたくさんのものを持っていました。
ピリピ3章7〜8節で「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています」と語っています。
1)彼は自分の血筋を誇ることができました。
①私は八日目の割礼を受け(アブラハムの子孫)
②イスラエル民族に属し(改宗したのではない。生まれながらの約束の民)
③ベニヤミンの分かれの者です(初代の王サウルの部族)
2)彼は自分が受けた教育を誇ることができました。
④きっすいのヘブル人で、ユダヤ人にも二通りの人々があった。ヘブル語を話すユダヤ人とそうでないユダヤ人。当時一般の人々はアラム語。ヘブル語は聖書の言葉であった。ヘブル語を話すことができたとは、日本でいえば古文を理解できるというもの。パウロは当時のすばらしい学者であったガマリエルの下で聖書の勉強をした者であった。
⑤律法についてはパリサイ人、パリサイ人とは、分離されたもの意味。当時6000人ほどいたと言われ、律法を厳格に守ろうとした。
3)パウロは、自分のまじめさ、立派さを誇ることができた。
⑥その熱心については教会を迫害したほど
⑦律法による義についてならば、非難されるところのないもの
これらのものは《パウロという人物を大きく見せる》のには役立った。
『パウロってすごい!』と思われるもの。
「私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています」
私たちが本来必要としているのは、神の素晴らしさを知ることです。パウロは、主イエスを知る前は、自分を大きく見せるものが喜びでしたが、これらのものは、キリストを知るためにはかえって邪魔になるものであったことを知りました。
主イエスにお会いするということ、主イエスを知るということはそれらをはるかに凌ぐすばらしい出来事です。多くの場合、人間的な誇りを数多く持つがゆえにそれらを失うのが惜しくて、キリストを求めてようとしないことがあります。もしそうであるなら、これ以上の損失はありません。
「弱い人と思われるのがいや」「変わった人と思われるのがいや」という、他人からの評価を恐れ、神の言葉に聞き従うこと、主イエスに従うことを拒むこともあります。しかし、使徒パウロの告白を聞きたいと思います。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました」損か得かとう基準からいうなら、キリストを知ることのほうがはるかに素晴らしいと告白しているのです。
主イエスは、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と語られました。私たちも自分の知識や経験を第一にするのではなく、この主イエスのお言葉に従って深み漕ぎ出して網を下ろす者とさせていだきましょう。