【権威と力に満ちたみことば】

(ルカ4:31〜44)

松見ケ丘キリスト教会 2020/5/17

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 悪魔の試みを受けた後、主イエスの公生涯の働きがガリラヤから始まり、ルカの福音書では、カペナウムを中心とした主イエスの働きがわずか2節でまとめられ、すぐに郷里ナザレでの出来事が記されています。ナザレの人々は、主イエスの「恵みのことば」を聞く機会を与えられたにも関わらず、その高ぶりのゆえに、主の素晴らしいメッセージを受け入れることができませんでした。それどころか、そのメッセージに怒り、主を崖から突き落として殺そうとしたのです。

 

 4章30節では、「しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた」とあります。特別な方法で彼らの思い通りにはさせませんでした。そして再びカペナウムに戻られ、安息日ごとに会堂でみことばを語られました。ホームページに、先週の祈り会の学びのテキストにガリラヤでの働きについての聖書箇所とカペナウムの会堂の写真を掲載してありますので、ご覧いただきたいと思っておりますが、同じ場所に建てられていたより時代の古い会堂でお話していたのは間違いないと思っています。

 

 カペナウムは、ガリラヤ湖の北西のほとりにある町で、ハウモン王朝時代に建てられたもので、古い歴史ある町ではありませんでした。当時のカペナウムの会堂の土台跡は現在も残っておりますが、その土台の上に三世紀頃に建てられた会堂跡は今でも残っていて、かなり大きな会堂です。「山上の説教」が語られたという丘は、カペナウムの会堂跡からナザレ向かう道の途中にあり、カペナウムから歩いても30分ほどの距離だと思います。

 

 「4:32 人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」

 主イエスが語られるメッセージを聞いた人々の感想が、ルカの福音書にもマタイの福音書にも記されています。そのメッセージの特徴は、「権威ある」メッセージとして聞いた人々に受け取られました。

 

 当時の律法学者たちが聖書の説き明かしをする場合は、有名なラビの言葉を引用し、誰々はこう語っているという説き明かしをし、誰かの権威を用いて自分の説き明かしの確かさを示しました。

しかし主イエスは、誰かの権威に依存するのではなく、ご自身が権威ある者として語られていました。マタイの福音書には次のように記されています。

 

 「7:28  イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」

 

 そのメッセージは単に、語り方が権威を感じさせるというよりも、文字どおり権威あるもことばであったということです。主イエスが語られることによって、そのお言葉の通りにすべてのことを従わせることのできたということです。その一つの現れが33節からの出来事です。

 

 「4:33 そこの会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいた。彼は大声で叫んだ。4:34 『ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。』」

 

 大声でわめいた言葉「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です」という内容は、一見すると信仰告白のように見えますが、そうではありません。大声でわめいたに、汚れた霊がとりついていて、この言葉を語らせていたのです。そして悪霊は、主イエスがどのようなお方かわかっていたのです。

 

 この福音書を記したルカの職業は医者でした。ですから、精神的な病気と悪霊に属することを同じとは見なしていません。汚れた霊に支配されていた人は、悪霊のゆえに主イエスがどのような人であるかということが分かったのです。しかし主イエスがどのようなお方であるかわかることと、信ずることは別なことです。

 

 主イエスは、その人にとりつき、彼を支配していた汚れた霊を叱りつけました。

 「4:35 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行った。」

 

 主イエスのこのいやしの奇跡を見た人々の反応が36節に記されています。「4:36 人々はみな驚いて、互いに言った。『このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。』 」そのみわざを見た人々は、いやしの奇跡に驚くというよりも、主イエスの語られるみことばに権威と力があったことを認めているのです。

 

 この時語られた主イエスのお言葉は「命令」としてのお言葉です。その命じられたお言葉の通りに、汚れた霊は出て行き、その後その霊につかれていた人は解放されました。

 

 「4:37 こうしてイエスのうわさは、周辺の地域のいたるところに広まっていった。」

 現在のようにマスメディアのない時代に、主イエスの行われたことが、人々の口から口へ、いわゆるクチコミで広がっていったのです。

 

 4章38-39節では、カペナウムの会堂のそばにあったシモン・ペテロの姑の癒しの出来事が続いて記されています。今でもカペナウムの会堂のそばにはペテロの家の跡に教会堂が建てられたという遺跡が残っています。距離にして50メートルほどです。

 

 「4:38  イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。4:39 イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。」

 

 今度は、「熱を叱りつけられると、熱がひいた」というのです。まるで「熱」に人格があるかのように記されています。ルカは、主イエスのいやしを当時の人々がわかる方法で記しています。ルカがここで強調しているのは、そのみことばに「権威と力」があったということです。

 

 ペテロの姑は、先ほどまで熱でうなっていたのに、まるでうそのように元気になり、今度はイエスさまをもてなし始めたのです。

 

 この記事を読むと、私は菅の時代に救われた姉妹のことを思い起こします。彼女は、大学生の息子さんのことでかなり悩んでおられました。ある日通勤で通る京王稲田堤駅のホームにあった教会の看板を見て、教会に訪ねてきました。最初は本当に暗い顔をされていたのです。とにかく、息子さんが変わることを願っていたのですが、まず自分が変わらなければならないことを知り、主イエスを救い主として受け入れました。

 

 すると、ご自分が変えられ、息子さんも変えられたのです。そして喜んで教会の奉仕をされるようになりました。私はこの姉妹のことを思うと、いつもペテロの姑の記事を思い出すのです。

 

 教会ではこれに似た出来事がよく起こります。やっと生きているかのような、暗い顔つきをして教会に訪ねて来た方が、イエスさまを信じてからは、来た時とは別人のように変えられ、今度は輝いた顔でイエスさまのための奉仕を始めるという出来事です。これは驚くべき出来事です。

 

 イエスさまに出会う前には、どんな人も心の中にいやされなければならない部分を持っています。罪責感もその一つです。それがイエス・キリストを信じることにより、全くいやされる。そして今度は、いやされた人がイエスさまのために奉仕したいと願うのです。

 

 4章40節から41節の出来事も、主イエスの権威と力を思わせる記事です。

 「4:40  日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。4:41 また悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊どもを叱って、ものを言うのをお許しにならなかった。イエスがキリストであることを、彼らが知っていたからである。」

 

 この時、主イエスが悪霊どもが、もの言うのをお許しにならなかったのは、「イエスがキリストであることを、彼らが知っていたからである」というのです。

 

 悪霊がいくら「イエスがキリストであることを知っている」と言っても、それは信仰告白ではありません。私たちの信仰告白は、悪霊の助けによってではなく、聖霊によってなされるものです。

イエスがキリストであることを知っていることと、自分の救い主であること受け入れることは別なのです。Ⅰコリント12章3節にあるように、聖霊によらなければだれも「イエスは主です」という事はできないのです。

 

 「4:42  朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた」

 

 まわりが明るくなると、人々がイエスさまを求めてやって来る。そこで、主イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて、寂しい所に出て行かれたというのです。それは誰にも邪魔されず、父なる神様と交わるためでありました。

 

 私たちは忙しさに追われていると、やがて働きに支配されていくようになります。確かに必要があって働きが求められていても、神からの力をいただかなくては、力に溢れて働きは続けることはできない。内側の力が尽きたとき、何のために働いているかがわからなくなるのです。あのベタニヤの二人の姉妹、マリアの姉マルタのようになってしまうのです。

 

 彼女はイエス様をもてなすことに心を奪われ、妹のマリアがイエスさまの足元に座り、じっとみことばを聞いていたことをゆるすことができず、その怒りをイエスさまに向けているのです。

 「10:40主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

 

 マルタは主イエスをもてなす働きをしているにも関わらず、主に怒りを燃やし、自分のほうが主になり、命じていることに気づかないのです。

 

 しかし、主は、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」と仰せになりました。

 

 主イエスは、さみしい場所に一人退き、父なる神との交わりを第一にされたのです。これは私たちが倣わなくてはならないことです。すべての働きの土台にあるもの。それは神との交わりです。そうすることによって、最初にあたえられたこころざしを持ち続けて働きを継続することができるのです。

 

 主イエスさまのもとにもいやしを必要とする多くの人々が集まって来たました。食事をするひまや眠る時間もないほどの、多くの働きが待っていたのです。しかし主イエスは、働きだけに振り回され、支配されるということをなされず、父なる神との交わりを持たれた。私たちも主イエスのあり方に学びたいと思っております。

 アメリカ大統領の毎日を追ったドキュメンタリ−番組を見たことがあります。重要な会議に出席し、訪ねて来る多くの人々に会い、各地で行われる様々な行事にも参加しなければなりません。それでも多くのやらなければならないことが残っています。

 

 主イエスは父なる神と交わり、ここでの働きに区切りをつけられ、ご自分が来られた本来のお働きを第一にされています。人々は、主イエスが、自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとしています。しかし、主は次のように言われています。

 

 「4:33 ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」4:44 そしてユダヤの諸会堂で、宣教を続けられた。」

 

 この時、いやしを必要とする人々の必要が多くあったのは事実です。しかし主は、その自分の順番が来る前に他の場所に移られるのです。私たちはかわいそうだとか、不公平だと思ってしまいやすいのですが、人々の求めに応じているだけであったなら、主イエスが人として世に来られた本来の使命を果たせなくなったのです。私たちもイエス様のように神様との交わりを優先して、自分にとって何が第一にすべき働きであるのかを確かめ、主の力をいただき、与えられた働きを続けていこうではありませんか。