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    【慰めに満ちておられる神

     (Ⅱコリント1:1〜7)

                2020/5/3 松見ケ丘キリスト教会

 

 

 5月3日といえば、例年ですとゴールデンウィークのど真ん中で観光地は人が溢れています。今年はコロナウイルスの関係で「Stay Home Week」となり、お家で過ごしておられる方が多いと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

 1995年1月17日に「阪神淡路大震災」が起こりましたが、それから16年後の2011年3月11日には「東日本大震災」が起こり、このところ休む暇もなく大災害が起こっているという思いを持っています。そして今年は新型コロナウイルスの蔓延で世界の感染者がすでに300万人を超え、アメリカではベトナム戦争以上の死者数になっているというのですから驚くほかありません。一日も早い収束を願っています。

 

 このような災害だけではなく、一人一人の人生においても苦難と呼ぶ出来事に何度か遭遇します。そのような時、苦難をどう捉えるかという問題に突き当たります。これは聖書の中でも大きなテーマとなっています。信仰を持っているからとか、正しく生きているから苦難に遭わないというわけではありません。

 

 旧約聖書のヨブ記は、「信仰と苦難」という問題を扱った書として有名ですが、この書の中心人物であるヨブについて聖書は次のように記しています。

 

 「ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」(ヨブ記1:1)  神のみこころに従って生きているヨブは、神の祝福を受けるに最もふさわしいと思える人物です。

 

 そのヨブが、誰もあったことのないような大きな苦難を経験します。それを見た友人たちは、ヨブの苦難には同情しつつも、ヨブの苦難はヨブが罪を犯した結果であるとしてヨブを責め立てるのです。ヨブの友人たちは苦難に関しては、因果応報的な考えを持ち、正しい人は報われ、悪者には災いがふりかかるというものの見方でヨブを攻め立てます。

 

 このような因果応報的な考えによってヨブを責める友人たちに対して、ヨブは、現実の世界を見ると、罪を犯した結果、苦難に遭うよりは、正しい人が苦難に出遭い、人を欺いて不正を行っている人が安穏としている。現実の世界は必ずしも因果応報ではないと反論します(ヨブ21:7−13)。ヨブ記にある苦難の問題については別の機会にゆずりたいと思っています。

 

 新約聖書では苦難をどのようにとらえているのでしょうか。使徒パウロの手紙を見ると、キリストに対する信仰のゆえに受ける苦難について数多く記しています。テサロニケの教会に送った手紙を見ると、(Ⅰテサロニケ3:4)「あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。」とあります。

 

 今日、新しい人を招いた伝道会などで「あなた方は信じたなら、苦難にあうようになると前もって言っておきます」などとお話をしたら、多くの人が信仰を持つことについて尻込みをするでしょう。しかし使徒パウロは、イエス・キリストを信じたテサロニケの人々に、「前もって、苦難にあうようになる」と語っていたのです。「苦難にあうかもしれない」ではなく、むしろ苦難を当然のこととして語っているのですから驚きです。

 

 また主イエスもヨハネの福音書16:33で、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と語られています。ですから、苦難にあうのは、必ずしも神がその人をかえみてくださらないとか、その人が罪を犯したからではないのです。むしろキリストを信じたゆえに受ける苦難があると語られました。

 

 人は苦難に遭うことによって、自分が何により頼んでいるものがあきからになります。それが財産であったらまずお金でその苦難を解決しようとするでしょうし、また自分や親しい人に何かの立場があったらその立場によって解決しようとするかも知れません。しかし人間にとって最も大きな苦難に遭遇すると、財産や地位など何の役にも立たないことを知るのです。

 

 しかし、私たちがより頼むお方は、死者をよみがえらせ、無から有を生じさせてくださる神です。そして、キリストを信ずるがゆえに受ける苦難は、キリストの苦しみにあずかることであり、キリスト者ゆえの特権でもあるとパウロは語っています。

 

 イエス・キリストを信じたゆえに苦難に出会った人に、クリスチャンである彼の友人が次のような手紙を書きました。「神は、君をキリストの側に呼び寄せたのです。この国(この世)ではキリストへの風当たりが強い。そのキリストと一緒にいる以上、君は丘の風の来ないところや日の当たる場所で、ぬくぬくとしているわけにはいかないのです」

 

 日本においても太平洋戦争の際には、クリスチャンは売国奴として非難されました。天皇を神として拝まないがゆえに「非国民」とも呼ばれ、これに耐えられない人は、信仰から離れてしまった時代もあったのです。

 

 また、日曜日から土曜日まである今日のようなグレゴリオ暦(太陽歴)が日本社会において受け入れられていなかった明治時代には、クリスチャンとして日曜日に礼拝を守るということは、職を失うことを意味しました。当時の信仰者はイエス・キリストを信じて洗礼を受けるときは勘当を覚悟で受けなければならなかったのです。しかし、そのような苦難を通して、キリストのものであることがいよいよ明らかになりました。

 

  信仰は試練からの逃避なのではないかと考える人もいますが、キリストを信じる信仰とは、人間として出会う試練から逃避することではなく、むしろ積極的なものとしてこれをとらえ、これに立ち向かわせる力を信じた者たちに与えるものとなっているのです。ヤコブの手紙1章2〜4節には次のように記されています。

 

 「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」

 

 Ⅱコリント1章には、あらゆる慰めに満ちた神が、苦難においても慰めを与えてくださるだけではなく、慰めを受けた者たちが、苦しみの中にある人々を慰めることができると記されています。

 

「1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」

 

 ただ苦難に出会った時にそれに耐えることができるだけではなく、どのような苦しみの時にも、神が私たちを慰めてくださるというのです。何と幸いなことでしょうか。

 

 コリント第二の手紙の冒頭を呼んで気づくことは、挨拶に引き続いて語られる神への賛美が「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように」と「あらゆる慰めに満ちた神」となっていることです。このコリント手紙第二を書いているパウロ自身が大きな苦しみを経験し、その苦難と同時に神の大きな慰めを経験していたからです。だからこそ、このように語ることができたのです。

 

 私たちは苦難と同時に、「あらゆる慰めに満ちた神」のお取り扱いを受け、神からの慰めを経験できるのです。さらに、その慰めをもって苦しみの中にある人々を慰めることができるという素晴らしい信仰者としての希望が示されています。

 

 苦難とは言えないまでも、私たちは日常の生活の中では、しばしば落ち込みを経験することがあります。人は落ち込みの只中にあると、他の人は輝いて、自分だけが惨めな経験をしていると思ってしまいます。しかし素晴らしい書物を数多く残し、説教者として有名なあのスポルジョンでさえ、次のように語っています。「私は恐ろしいほど落ち込んでいるので、私が味わっている極度のみじめさなど誰も経験してほしくないと思っています」。スポルジョンが落ち込んでいたなどとは驚きです。

 

 また、「すばらしい説教者と」と呼ばれたジョン・ヘンリー・ジョウェットは、「皆さんは、私には浮き沈みがなく、いつも喜びを絶やさず、落ち着いて堂々たる態度で霊的奉仕をこなしていると思っておられるかも知れませんが、決してそんなことはありません。時々全くみじめな思いになり、すべてが真っ暗に思われることがあります」と語っています。彼はこのようになった時に、「感謝の気持ち」は、ワクチンであり抗毒剤であり防腐剤になると付け加えています。すばらしい働きをしていたこのこれらの人の言葉に接しただけで慰められる思いがします。

 

 Ⅱコリント1:3節から7節には「慰め」という言葉が10回も用いられています。

 私たちは苦難を通して、死人を生かし、無から有を生じさせてくださる神に拠り頼むことができます。神は苦難だけではなく、慰めをも用意していてくださっているので、キリストにある者は、苦難や落ち込みと共に慰めを経験するすばらしい機会となります。

 

 主イエスは世を去る前に弟子たちに、助け主なる聖霊を送ってくださるという約束を与えられました。助け主と訳されている「パラクレートス」という言葉は、慰めるとか、力づけるという意味があります。神が私たちに与えられた聖霊によって、どんな苦難の時にも私たちの傍らに立ち、力づけ慰めてくださるのです。しかもこの慰めは苦痛をやわらげる同情的な慰めという意味以上、勇気をもたらす慰めだというのです。

 

 続いて、パウロは次のように語ります。

 「1:6 私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。」

 

 パウロが受けた慰めは、パウロ個人だけではなく、同じような苦しみにあっているコリントの人のためでもありました。なぜなら、同じ神が、神に信頼する者たちにも同じように慰めを与え、同じ苦難に耐え抜く力をも与えてくださるからです。

 

 パウロがこの手紙を書く前に経験したことが、Ⅱコリント7章に記されています。

 「マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました」(Ⅱコリント7:5)。しかし、慰めの神が、テモテを通してコリントからのパウロへの慰めを持って来たのです。

 

 ですから、Ⅱコリント1章4節にあるように、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます」と語ることができたのです。

 

 私たちが苦しみを通して経験する慰めは、慰めを受けた人のものだけではなくキリスト者全体のものであると言うのです。キリスト者にとっての苦難は、苦難を耐え抜く力を神がその人に与えられるだけに終わりません。同じような苦しみの中にある人々にもその苦しみが慰めに変わることを経験できることをあかしできるからです。

 

 1章7節では「あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです」と語っています。「ともにしている」(コイノニア)という言葉は、福音書では仲間と訳されていますが、あずかるとか交わるとか分かち合うという意味のある言葉です。自分のためだけではなく分かち合うことです。これがキリスト者の交わり「コイノーニア」です。

 

 使徒パウロは6節で、「私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです」(6)と語り、7節では「苦しみをともにしているように、慰めもともにしている」と語っています。そして、5節では、「1:5 私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです」というのです。

 

 キリスト者にとっての苦難は苦難を耐え抜く力を神が与えてくださるだけではなく、苦難が慰めに変わるものであることを教え、同時に同じような苦難の中にある人々の慰めのためでもあるというのですから、苦しみは希望へつながって行くものであることが分かります。

 

 信仰は、人間として出会う試練からのがれるためのものではありません。試練を通して私たちが落ち込むことは、信仰が足りないから、神のかえりみが、その人に及んでいないということではなく、神の慰めを経験するための入り口に立っているということなのです。

 

 パウロはピリピの教会に「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」(ピリピ4:14)と語っていますが、私たちがキリスト者の交わりの中で、困難を共有することは、慰めをも共有することができるようになるということです。

 

 最後に1967年に東京で行われた「ビリーグラハム国際大会」で聖歌隊によって何度も歌われた慰めに満ちた賛美歌「私の仕えまつる神」の歌詞をご紹介いたします。

 

      私の仕えまつる神は、私と共に歩いてます。

      私は彼のみこえを聞き、彼のみ顔を見てます。

      キリスト・イエスはいつも私にささやき、私に聞き、

      この世の雨に風に助けて下さる生ける主です。

 

      私を人がののしるとき、世の中の目が冷たいとき、

      時を移さず、呼びかければ、主は来られます、ただちに。

      キリスト・イエスはいつも私にささやき、私に聞き、

      この世の雨に風に助けて下さる生ける主です。

 

      求める者の望みとなり、たずねる者の助けとなる。

      このお方より力強い神はいませぬどこにも。

      キリスト・イエスはいつも私にささやき、私に聞き、

      この世の雨に風に助けて下さる生ける主です。

 

 詩篇119:71には、「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」とあります。苦しみは、神のみことばの真実を自分の体験として経験できるチャンスでもあるのです。私たちは、苦しみや試練を経験しているとき、この試練の中にも神は慰めを用意して下っていることを信じようではありませんか。

 

 そして、パウロのように、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます」というみことばが、真実であることを経験をさせていただきましょう。

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